人生100年時代・・・ライフデザイン・アドバイザー マサキの行き方

ライフ・デザイン・アドバイザー 正木宣が人生100年時代といわれる中で考えること、動くこと、その記録

ますます深刻な事態が進んでいる

すでに内定率が80%を超えている?

 

 

 今NHKのニュースを見ていて愕然としてしまった。

 それが内定率が80%を超えているということ。さらに、その内訳ではないが、内定の企業数が2.0を上回っていること。

 これは以前も述べたかもしれないが、あくまでも情報源が明確でなく、しかもその平均値のはずなので、実態を表しているとは、経験上思わないが、それでも異常な数字であると考えた。

 むしろ企業よ、何してるんだ!! とも。

 多分、これは、普通である私が支援している学校の実数値とは異なるし、実態数値を言えばこの何掛けかの数値かとは思うのだが、結局は、ますます二極分化が進んでいるという証左ではないかと考えている。

 つまり、俗にいう「意識高い系」の数値であって、またはそれなりのブランド大学を主とする数値ということではないかということ。

 そして、中小企業や無名企業にとっては、確かに早く囲い込みたいという「焦り」というか考えもわからないではないが、あまりにも安直ではないか、ということ。



某大学では上級生が新入生にこの大学に入ったことで就職は安泰です、と言った

 

 

 

 これは何かのネットニュースかで見たのだが、確かに日本有数の某W大学で、入学式で上級生が新入生に語ったらしい。

 結局はいまだに採用がなんやかや言え、学校名などの要素で決まられていること。本当に「人」で見ているのか疑問ということ、だと思う。

 また、同じニュースで、ある企業が「内定辞退キット」なるものを販売し、それにはなぞって書けばいいだけの「文章テンプレート」が添えられ、その上で、解説動画がついて、こうすればいいと教えてくれるということ。

 これっておかしくない?!

 と言っても、実はボク 自身も内定辞退の相談があった際には、同じような手助けはしているが、それでも文章は自分で考えさすし、電話も、実際には今の学生が電話することに慣れていないことは事実なので、ある程度のことは教えつつ、でも自分で電話させる。しかも、しておいでといい、またはその場でさせて、結果を確認している。

 ただ、テンプレートや解説動画まで行くのはどうだろう。それを出す企業はまあビジネスだからそれもありと思うが、それに頼る学生って、採用してどうなの?と考えるのだ。

 今はどの企業も「協調性」は重視するが、一様にいうのが「自分で考え行動する学生」ではないのか、ということ。

 何か企業が焦るあまり、おかしい状況が起こっているなということ。
だから日本がビジネスで沈んで当たり前かな、という感想となる。

 

(これはまだ語り足りないので、継続して考察します)

 

 

採用の出だしが早くなって、ますます混迷が深まっている

昨日から実質の仕事始め

 昨日9日から実質の仕事始めで、キャリアセンターに出校した。

 まだ予約はないか、または未内定の4年生で継続して支援している学生から予約があるか、と思いつつ席に着いたら、3年生の予約が入っていた。

 そういえば、本来、ボクの契約は4年生を中心にしているのだけれど、12月頃より3年生の面談予約(相談)が増えてきて、3年生で埋まるという状態が続いていた。

 「人手不足」というキーワードが独り歩きして、その分採用活動が早まっているという認識はあったが、実際、3年生に聞くと、夏のインターン先からオファーがきたり、インターンに参加したら選考のオファーがあったりと、すでに「内定」を獲得している事例も散見できる。

 確かに例年、こうした「掟破り?」は存在したが、昨年度よりますますその度合いが強まっているのは確かだ。


 

インターンシップという名称が混迷させている?


 実はまだ2021年度も一応の採用活動の申し合わせ?は生きていて、3月広報活動解禁で6月選考活動解禁というのが、建前としての採用活動の決まりになっている。

 だから、就活サイト(リクナビマイナビなど)も公に「採用活動」に対してオープンするのは3月1日から、ということになる。

 そこで活用されたのが「インターンシップ」。

 日本での感覚では、インターンシップとは「職業体験」「就業体験」であり、1週間から10日間、実際にその企業で携わる仕事を経験しながら、仕事とは何かとか、この企業はどんなところなどを体験すること。かつ、そこにかつては、採用に直結させない、ということが加わっていた。

 しかし、本来のインターンシップ制定の目的は企業と就業者とのミスマッチの解消なのだから、採用の一環ともいえるわけで、だから決して「掟破り」ではないだろう。

 ただ、概ね秋冬だと1日、2日で学生を集め、講義して、グループワークなどさせるのが基本、これでは「会社説明会」といわれても仕方ないと思う。

 学生には、その点注意して、周りが行くから、とか無目的に行くのは逆効果だよ、とは伝えているが、相も変わらず、この国は、名称がいろいろ独り歩きして、本来とかけ離れていくのだな、と思ってしまう。

 言霊などといいながら、言葉をもてあそぶ・・・・なんなんだろう

 

 

七草がゆを食す

朝は七草がゆ作りから

  今朝は通常モードへの切り替えも考えて、ほぼ平常に近い時間に起きて、7日ということで、七草がゆを作ることにした。

 記憶が確かなら、七草がゆは、新年の挨拶周りなどでご馳走をいただき、胃腸を休め内臓をケアする意味で食べる習慣ができたと聞いた。

 すでにその謂れからは離れて、どちらかというとお正月行事の一貫の中に位置している感があるが、ここ数年、食べている。

 ただ七草はスーパーで販売しているフリーズドライ製の粉末のようなものが最初だったが、これでは何か味気ないと、ここ数年は、これもスーパーで販売している七草の詰め合わせたものを使用することになった。

 ただし、おかゆは市販のレトルトのものをずっと使用していた。

 今ウチにある炊飯器は優れもので、五分粥と全がゆが選べて作れるのだが、余ったら捨てるのも嫌だし、ここにところ玄米を購入していたという理由でもある。


 でも年末どうしても白米が食べたくて、白米も購入していたところ、妻が沢山のご飯を作ってしまったので、今日は作ることにした。

 

結構水加減が難しい

 よってご飯からおかゆを作るべく、ネットで検索してレシピを調べる。

 おおよその要領はわかっているのだが、ご飯と水の加減がわからないのだ。レシピも定量的であたはめられず、結局目分量でスタートした。

 先に七草をさっと熱湯にくぐらせ、細かく刻む。おかゆの状態を見つつ、七草を投入。

 と単に雑炊のような朝感じに仕上がる。

 ただ、それでも妻は喜んでくれ、珍しく完食となる。

 

 それでも余ったので、夜もいいかもというので、水を足して今度はかなりおかゆとなって食した。

 う〜ん、満足。

 そう七草がゆ

 春の七草をいまだに諳んじている。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ・・・・・

 ま、そんな日常であった

 

これも次代に繋げたことかもしれない

国語力の低下がいわれている

 最近の学力試験の結果か何かで、国語力の低下が問題視されていた。

 それは文章を読んで理解する力=理解力の低下ということらしいが。

 その指摘を最初の見たのが、AIについて開発に携わった方が語られたことだったが、文章を読み解く力が劣ってきていると。来たる2045年にはAIが自ら学び、人間に追いつき追い越すとされる「シンギュラリティ」がやってくるとされ、そこでAIに東大の入試合格レベルまで学ばせようとしてきたが、まだまだ追いつかず、それだけ人間の力が見直されたのであるが、同時に指摘されたのが、でも、一般レベルでいえば、最近は理解力が低下してきているということだったかと記憶している。

 ただ、その理解力の低下ということについては、親の経済格差の問題として捉えることができたり、あるいは教育手法に問題があって教える手段を何とかしないとという問題に繋げて考えられたり。

 その解決策の一案として、今回問題になった大学試験への記述式の導入が掲げられていたと思う。

 それも採点の方法が問題視され、結局は先送りされてしまったが、昨日かのTV番組で実はそれも現在のセンター試験の内容もろくに精査しないで(基本現場を見ないで)決められたようだということが指摘されていた。

 さらには、先のAIの開発担当の方の話には続きがあって、こういうことを問題にすると、短絡的に「文章」を「読み解く」ことに繋げて、例えば看板の意味を選べとか、通達文書か何かを題材にして、何を問題にしているか読み解けなどという発想になりがちで、文学作品を読むとか、それに関連して文学の中の「行間を読み解く」などについて直接的ではないなどの指摘に繋がり、そこに恐れを抱いているという話があった。

 つまりは、やはり教えられる側の問題もあろうが、教える側の問題もあるはずなのだ
 

古(いにしえ)から「言葉」を大事にしていた、と思っていたが

 

 

 

 日本は古来から「言霊」などといって「言葉」をすごく大事にして、まさに「言葉」にしたことが実現されるように大事に扱ってきたという歴史があった。

 

 今でも文学作品だけでなく、様々なシーンで言葉と漢字を合わせたような用法や、ダジャレに象徴される言葉遊びなど「言葉」を活用している姿がたくさん見受けられる。


 ちょうど今日1月6日、「仕事始め」となった日に、問題あって引責辞任した日本郵政の新社長の会見が紹介されていた。

 そこで思い出したのが、逆に辞任することとなった日本郵便各社の社長会見での言葉だ。

 日本郵便の社長だったが、正確な言葉は忘れたが、「お国に大変なご迷惑をおかけし、その責任をとって辞任する」との主旨だったかと記憶している。

 

 その郵便各社は政争にもなった「郵政民営化」によって誕生した会社で、その意図は今まで国でやってきた事業を民間の知恵を導入することで、よりよくするということにあったかと思う。

 しかるに「生保」などで加入してもらう為にさまざな手段を使って加入させていたことの責任で結局は辞任に繋がったかと思う。

 ならば民間の発想ならば、まずあるのは「ご迷惑をおかけした、弊社を信頼して加入くださった方々」ではないだろうか。国はまだ有力な株主でもあるので、「お国」に対してもお詫びするのはありとして、まずあるのは「お金=収入」をいただいている顧客が先に来るはずだと考えるのだ。

 当然、会見はその部分だけなく他にも語っていたはずで、その文脈を知らないこともあるし、ニュースで切り取られたその部分だけで即断する訳には行かないことは十分承知しつつ、でもまずは「お国」が来る、この経営者の下では顧客不在になるはなぁ、と感じさせられた会見だった。

 なぜならいつも上=国を見ていたから、そういう発言になったのだろうし、とするならばその下も上を見て仕事するのかな、などと考えてしまう。(そういう意味では現場がやはり一番厳しくかわいそうである)

 これがしかも日本を代表する会社の社長の言葉なのだ。

 最近気になっているのはそれ以外にも国会中継などで耳にする官僚の答弁や議員の言葉、さも丁寧に聞こえるが実はそれ「敬語」の用法として正しいのかなというような言葉。「〜してございます」とか結構気になる。

 そして教員の戒告処分の新聞報道など。

 いわば範を示すべき「大人」からして、しかも優秀とされる人や教える立場にある人からしてなのだから、その子供たちが受け継いでも仕方ないのかと暗澹たる気持ちになってしまう。

 新年早々愚痴から始めてしまった。これも反省すべきことかもしれない。

 

 

 

 

 

 

年越しに考えてみた

いよいよ新しい年が

 今日は12月30日。
今年2019年も残すところ後2日となりました。ただ、31日大晦日は、新年にも足を踏み入れている感覚なので、実感として、今日が最後の締めくくりと言えるかもしれません。

 ただ、昔の、と言っても江戸時代くらいの話のなるかもしれませんが、大晦日は最後の「取立」というか、「掛取」の日だったようで、落語などでおもしろおかしくこの日の商家と庶民のやりとりが語られています。

 ボクの家には色々今考えると面白い風習があって、大晦日の夜には、年越しの無事を祝って「おせち」を食べてゆく年くる年の思いを馳せながら味わいそしてそばを食べる。また正月には家事は基本「男」がする。と言ってもほとんどは「おせち」と「お雑煮」が主体なので、用意してくれている「お雑煮」の材料を使って3が日は「男」が台所にたつというものがありました。

 これは四国などにある「女正月」の風習の流れを汲むものか、3が日だけは台所から女性を解放しその分を男性がする、という考えがあったかと考えます。

 全てがそうとは言いませんが、そんな意味では、「男尊女卑」などと批判されているようだが、昔の方がそれぞれの役割が明確にされ、かつそれぞれがお互いを尊ぶ慣習もあったかのように思え、もっともっと古来からあるそんな風習を見直すのも、新しい時代を生きる知恵かななどとも考えています。

 

新しい時代に向けて帆をこぎ出そう

 

 昨日たまたま妻とニュースを見ていて、「先進国」「後進国」との話になりました。

 妻はよく欧米を「先進国」でまだ日本は「後進国」だから、という表現を使います。それはそれで正しい意味もあるとは思うのだけれど、例えば日本も約2700年ほどの歴史もあり、独特の文化を持っていると思うのです。

 ただ、私見ですが、それが明治に一度、そして戦中・戦後に一度分断されているように考えています。

 明治とは「明治維新」。当時の欧米先進国に「追いつけ追い越せ」で一挙に洋化し欧米列強に並ぼうと学ぼうとした時代。これは今でも「時代の変わり目」や「革命的に変わる時代」を表す表現として言葉として使われているものです。

 しかし、それも戦中・戦後にまた大きな価値変換があったかと思うのです。

 特にこの二つの時代の節目に起こったことは、それまでの価値観をすて、新しい価値観で行き直したかのような、一気にそれまでの国が違った国になったかと思わせるような出来事だったように見えます。

 ただよく歴史を見ると、常に「大陸」などからくる「新しい時代の風」というものを捕まえ、それまでの時代がなんだったのか、というくらいまで変わるということはこの日本では常に起こっている、そんな気もします。

 よき伝統、守るべき伝統は何かよく吟味し、その上で新しい時代の潮流に乗る、そのことが求められる、そんな時代が今、のような気がしています。

 新しい年、さあ、どんな変革が起こるのか、楽しみに過ごしたいと思います。

 

就活は楽しめない!?

樹木希林さんのこと

 BOOK上半期ランキングで樹木希林さんの「一切なりゆき」が新書初の1位を獲得し、さらに5位にも同じく樹木希林さんの著作がランクインしたとのこと。

 そのなかで、詳しくはわからないが、本の広告で「楽しまなくていい、面白がればいい」という言葉が紹介されていた。

 就活を1字で表すと、というのをどこか人材系の会社が発表していた気がするが、昨今の売手市場と言われる状況からか、「楽」「遊」という字が上位にきていたという話を聞いた。

 確かに数字で見ても、新卒の求人倍率がほぼ2倍に近づき、「バブル期」やリーマンショック直前期に並ぶ「売手市場」を表す数字となっている。

 まさに「楽」、就活も楽しめば良いと思うのだが、どうもこれも、中堅校では厳しいものがあるのかもしれない。トップ層はそれでも「楽」ではあるが、なんとなく関与した学生の多くが「楽しい」とは言わなかった

 

 確かに自分なりに良くやったと思えた企業からはお祈りが来て、もうだめだと思った企業からは内定が出る、など今まで解答が与えられてきた学生の環境から推測すると、間尺に合わないことが起きるのが就活

 

 でも、だからといって楽しまない手はないと思うのだが・・・

 

 だから最近の若いヤツはメンタル弱くて、とは思わない。理不尽なことが続けば大人だって嫌になるのだから

 

 だからせめて面白がって欲しいと思ったのだ

 

 彼らはゲーム世代だ。全員がどうかはわからないが、少なくともボクらの時代からするとそう括ってもいいのではないかと思う。確かにリアルな世界ではゲームのようにアップデートはできるものではないのかもしれない

 

 でも自分の境遇くらい、アップデートして面白がればいいと思うのだ

 

 さらに活動を進めて、「世の中にはこんな企業があるんだ」とか「こんな働き方があるんだ」とか、面白がってもいいと思う

 

 それを楽しめとは言わない。でも面白がるのはありではないか

 

 だからリアルは知らず、樹木希林さんのように軽やかになれると思うのだ

学校の「当たり前」をやめたby工藤勇一〜生徒も教師も変わる!公立名門中学校長の改革

宿題は必要ない。クラス担任は廃止。中間・期末テストも廃止

  とまぁ、本に記されたコピーをそのまま転記してしまったが、これは千代田区麹町中学校の工藤校長ご自身が赴任され、取り組んでこられた「改革」についてその考え方や行ったこと、行われていることをそしてそこにどういう経験を通じて至ったかを記されたものである。

 そしてそれは最上位の目的は何かを明らかにするところから始まる。

 中学校の最上位の目的とは何か、学ぶ生徒は「社会でよりよく生きていく」為にある、と捉え、その上で学校で「当たり前」とされていることでも本当にそうなのか、と見直し、手段が目的化されているものを元に戻そうとした結果がこれらのこと、ということ。

 教師が自分たちが評価しやすいと「中間・期末テスト」が行われているが、そうではなくテストは学習したことがちゃんと見につき社会で生かせるかを見極めるためなので、単元終了時に行う。そこで評価して足りなければ補習や再テストなどでフォローしていく。

 最上位目的・目標を達成する為にはクラスの固定担任制は、経験やスキルによっては、かえって担任自体に負担を負わせることにもなり、格差も生まれる可能性もあるので、学年を複数で受け持つ。それは、親への対応、生徒への指導(生活指導他)はそのなかで経験やスキルがふさわしい者が行う。

 などなどその取り組みには社会人にも大いに参考になることがたくさんある

 しかも、これは私立の中学でなく公立の中学であり、ちゃんと文科省の学習指導要綱にも照らしながら実行されているところがすごい。

 

この本での学びは何だろう

  この本は書評のみでなくTV等などでも取材された、その内容を自ら語られたものだが、この本でボクらが受け取るべきことは何だろう。

 まずこういう内容だとついつい工藤校長は「民間」出身と思いがちであるが、(実際本を読むまでは多分そうだろうとボクは思っていた)実は大学をでて教員になり地元山形で教鞭を取られたのち東京の教員採用に転じ教育委員会の仕事を経て今日に至っている。だから民間で勤めた経験はない。

 そこで先生は書かれている。
本来教員は人材育成のプロであるはず。

 これはこれからの日本を考えていく上でとても示唆にとんだ本であり、学校だけでなく企業など組織に十分取り入れられる内容であるとボクは考える。

 実はボクが関わっている大学は、文系大学であり、かつもともと漢学塾がベースとなっている為か、教員志望が少なからず居る。
ただ教員志望なので、ボクが直接に関わる場面がある時は、ひとつは進路面談をする時でありさらには教員採用試験が終わり、残念ながら志叶わず教員から転じて民間企業への就職を考える時くらいである。

 ま、稀に教員は資格のみでと考え、民間企業を受けていたが、そこで活動を進めるうちにやはり自分は教員を目指すという事例も内ではないが・・・

 何れにせよ機会あればこうした考えを持ってことに当たっている方がいることを紹介できればいいし、自分も「当たり前」をもう一度再確認し、就職支援ではあるが、その最上位の目標は「就職させる」ことにあるのでなく、「社会人として社会に何らかの貢献ができる」ことを肝に銘じ今後に当たっていきたいと考えた。

 また、こんな「当たり前」に見えることも、その本質を見れば、あれ違うのでは、と思えることは沢山ある、そのことは理解されているが、それが組織のせいや上司などのせいで進められないと思うことは多々あるだろうが、それを言い訳にしたとき「改革」は進まないということ。

 公立中学でかつ文科省の指導要綱も踏まえつつ、最上位目的を達成するにはどうすればいいか、「できること」から取り組まれたこの事例はとても勇気を与えてくれるだろう。

 ただ、注目も集め、見学に関してもオープンにされているのではあるが、それを深く考えずただ真似をしても仕方ないこともよく理解すべきであろう。